土曜日, 10月 21, 2006

ベナンダンティと雑文

今週の自主ゼミで読んだ本。
カルロ・ギンズブルグが書いた本で、みすず書房からは「夜の合戦」という邦訳が出ている。

正直、バタバタとしてしまって読み込んだとは言い難い。
挙げ句、レジュメも当日学校で作る始末。
参加した3人には申し訳なかったと。

内容的には、前提の部分に諸々疑問の残る感じだったが、実際に起こったことの記述に関しては面白い、興味深いものであることには変わりが無い。
そう言えば、話題にした記憶が無いんやけども、あの話で興味深いのは、ベナンダンテが自ら諸々の言説を受け入れていく過程。

全く別の存在であると語られていたはずが、時代を経るに従って、ストレーガ的な要素がベナンダンテに関する言説に入り込んで行き、しまいにはベナンダンテ自身がストレーガ的な要素でもって自分達自身を語る(つまり定義づける?)。

同じことがベナンダンテと教会の間でも言える。
教会が作り上げた魔術に関する言説には一切関わりをもたないと明言していたベナンダンテたちが、次第にそのような言説でもって自分達を語り出す。
もはや、作り上げた当の本人である教会側が、魔術にまつわるおどろおどろしいイメージの実証性を放棄したにも関わらず、なおもその言説でもって自分達を語りつづけるベナンダンテたち。

こういう流れってのは、歴史的な視点がいるから僕にとっては興味深い。
まさに「熱い」社会だ。

イメージやレッテルというのは常に要素ごとにバラバラに分解され、正反対の要素ですら組み込むことによって再構成されているのかもしれない。
個人レベルでなら、こんなことはいくらでも起こりうる。
ふとしたことで自分が持っていた誰かのイメージがかわる。
良いから悪い、優しいから酷い、義理難いからいい加減、思慮深いから軽薄etc...

でも、これが集団レベルになると話はややこしくなる。
そもそもの問題として、誰かのイメージというのは「私はその人物のことをこのように考えている、感じている」という主体側の問題であって、イメージされている対象の本質的な性質とかそういった類のものではない。
優しそうな人が本当に優しいかどうかはわからない。
仮に、初対面の人で事前にその人となりを全く聞いていなかったとしても、一目見た瞬間に、落ち着いた人、とイメージを作り上げることができる。

対象が集団であってもそれは同じである。
私は別に貴族といわれる連中を見たこともなければ会ったこともないが、すべからく金持のボンボンだとイメージすることはできる(ただしこのイメージに妥当性があるかどうかはわからない)。

個人が何かをイメージするということを言っている限りは何も問題は無い。

では、ある集団が共通して対象に何らかのイメージをもっているという場合をどう考えよう?
口が裂けても「ある集団がイメージするところによると云々」という書き方はできない。
集団は何も思考しない。
多分、この集団はその対象に対してしかじかというイメージを持つ傾向にある、と言えるだけだろう。

この手のイメージは容易に変わりうる。
しかし、イメージという言葉が「〜観」と装いを新たにして提出されると、それはあたかも確固とした何かを表しているかのように聞こえてしまう。
まるで永遠不変の何かであるように。

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